炎熱の彼方に涼風を感じる 「聖シメオンの木菟」を読んで

先月のことだが、友人からある本を紹介された。
詩人であり、仏文学者でもあった、井上輝夫氏が著した「聖シメオンの木菟」という本で、
1970年代初頭のシリア、レバノンの旅の紀行だという。
井上氏の名前は知らなかった上に、その方の紹介も少し要領を得ないところもあったのだが、
私は、すぐにその本を読もうと決めた。
シリアやレバノンのことが書かれているというのは、それほど気を惹かれなかったのだが、
そのタイトルに惚れ込んでしまったからだ。


さて、「聖シメオンの木菟」を概ね読み終わった。
概ねというのは、途中斜め読みをしてしまった部分もあるからだ。
それは、フランスでのことを書いた、彼の回想的な部分であるが、
つまらなかった訳ではなく、彼個人の内省のようなことが書かれており、
少し入っていけないところもあったからだ。

この本は、著者が若いときに、フランスで学問を修め、その過程でシリア出身の女性と出会い、結婚し、(推測だが)
日本への帰途の途中に、その故郷シリア、そしてレバノンを訪ねたときの紀行である。

まず、1970年代初期にこの地域を旅した日本人は多くはない。
その点でも貴重であるが、それ以上に貴重なのは、彼が完全に詩人の感性で旅をし、それを書き記しているからだ。
単なる旅行記やジャーナリストの記事、時事的なルポなどであれば、わたしはこの本を手に取ることもなかっただろう。
なぜなら、その類いの本は今までにも何冊か読んでいるし、それらから得るものはあまりないことも想像がつくから。
彼が旅をした時期は、まさに第四次戦争(ヨムキプール戦争、ラマダーン戦争)が始まる直前であり、
地域全体がそれなりに緊張していた時でもある。
彼はそのことを微妙に感じながらも、その事実を詮索するのではなく、その状況での地域の様子や人々の様子、
気候や時々刻々と感じられる空気や肌に感じる気配、それから導かれる気分の移り変わりなどを
しっかりと綴っていて、それがとても興味深い。
まさに、自分が彼と共に、シリア南部の砂漠に立っているかのごとくに感じられるのだ。
わたしが、彼の地に行ったことがあることも関係しているかもしれないが、
彼の書いている言葉や、その感覚は、すばらしく詩人のそれであり、それはジャーナリストが書く文章を
遥かに凌駕するものだと感じた。

 書かれているのは、フランスからレバノン経由でダマスカスに降り立ち、そこで過ごした数日のこと。
そこから南部への観光、訪れた遺跡のことなど。
アレッポでのこと。
またシリアからベイルートへの道程、ベイルートでの日々、バールベック遺跡でのこと。
ベイルートでの人々との会話、思うこと等。

巻頭に書かれている、この旅へ出る前に見たという夢の話が白眉である。

これだけの書が、いままで、そして今でも、大きく取りあげられていないことが驚きである。
その一方、大きく取りあげられないであろうことも、予想がつくし、その理由もわかる気がする。

「聖シメオンの木菟」には、そのときの目先のことに囚われたルポや報道記事とは一線を画する本質的なことが
綴られている。そして、著者の考察は、とても深く、核心に触れるものであるからこそ、
メディアは取りあげない、いや取りあげることが出来ないのである。

しかし、シリアやレバノンだけではなく、あの地域に関心を寄せる人々が、読まなければならない書であると、
わたしは確信している。
ただし、短絡的に、今起きていることを知りたいとか、報道的な政治、軍事、世界のパワーバランスの解説を
期待する人には、読む価値はないだろう。
そんなことは、一文字も書かれていないからだ。

ただ、このような本を読む人が増えるとき、世界はより平穏に近づき、戦争で人々が殺し合ったり、憎しみや悲しみを
生み出すようなことは、霧散していくのだろうとは予測できる。
そういう意味では、できるだけ多くの人に、この書を読んで貰いたい。
そして、何が書かれているのか、なぜこういうことを書いているのか、それを理解して欲しいし、
理解する努力をして欲しいと願う。

この本がとても大切な本であると心から認識できたとき、
はじめて、マスメディアがまき散らす騒音がいかに害悪であるか理解出来、耳を塞ぎたくなるだろう。
そして、シリア、レバノンはじめ、彼の地の人々、そこに生きる個々人の息吹までも、身近に感じる事が出来、
その運命を思うとき、胸を締め付けられるような悲しみを感じることができるだろう。



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by shmurat | 2018-08-02 08:47 | Book review | Comments(0)