移り変わる季節に包まれて考える

 長く寒い冬が終わり、ようやく春の訪れである。
暖房器具に駆け寄ることもなくなり、厳冬期の眠りを助けてきた寝具はもはや不快なほどになった。
晴れた日には、青い空が目に染み、光はどこまでも過剰なほどに降り注ぎ、目を開いていることが苦痛ですらある。
心なしか、通りを行き交う自動車の数も増えて、道をそぞろ歩く人々の衣も軽やかになり、その表情は明るい。
先に東京を歩いた折には、満開の桜に寄せられた人々の群れがどこまでも続き、これ以上ないほどに平穏な光景が現出していた。
今わたしがいるここでは、桜の季節はもう少し先だろうか。蕾もかたく身を閉ざしている。
春から夏にかけての季節は、気分の高揚と共に、さまざまなお祭りや行事も行われ、じつに楽しげな季節でもある。
それを待ちわびるかのような今の時期は、これからなにをしようか、どこへ行こうかと考えているだけでも楽しい。
また、新しく進学したり、就職したりした人たちにとっては、新しい暮らし、人生の始まりでもある。
希望に満ちあふれた季節ともいえようか。

 さて、そういうことは、多少なりともわたしのような人間にも軽やかな気持ちを与えてはくれるが、
しかし、わたしの人生は、もうそういう季節を過ぎ去ってしまった。
これからは、いかにつつがなく終わりをまとめるか。できる限り悔いの残らないように、恥ずかしくないように、
その形を考えて、足りないところは付け足して、体裁の悪いところは修正していく。そんな人生の残り香の時期でもある。

先ほどまでは、春の季節の肯定的な部分を少し綴ったが、裏を返せばこの軽やかで、多くの人が新たな希望に燃え、
また過剰なほどの平穏さというのは、実は何も見ていない。何も感じていないことの裏返しでもある。

おそらくかつてはそれでも良かった時期があったのかもしれないが、現在のわたしたちが生きている世界は、
そんな無謬の時代を通り過ぎてしまい、もはや壊れかけたガラス細工のように儚いものであることがはっきりと視認されてきた。
そんな時である。

政治がおかしいとか、馬鹿げているとかはいつものことだ。
今は、それにさらにより本質的なことが大きくのしかかっている。
この地球の環境の中で、大いなる自然の中で、いかに生きていくことができるのか。
いかに生きていくべきなのか。
あるいは、わたしたちは生きていくべきなのか。
そもそもなぜ生きているのか。
問いは尽きないうえに、答えも与えられない。
答えを見いだしていくのは、わたしたち自身であり、そのうえで大いなる自然(便宜的に自然という単語を使っているが、これはいくつもの他の
単語に置き換えられる)の壮大なシステムのなかで、わたしたちの生きながらえる場を見つけて、そこに自分たちを当てはめていけるのか、ということがとても大切になってきている。
 その答えを見いだせないとき、わたしたちは滅び去ることになるのだが、世界の多くの人々はその予兆さえも感じていないのかもしれない。

わたしは、この数年来の間に、いくつもの生きることへの示唆を与えてくれる書にであった。
いままた、そのうちの一冊を読み返し、そこに描かれた世界を、その意味合いを、かつて実際に合ったその出来事を改めて考え、その光景を想起しながら、現在のわたしたちの世界と比較し、近年わたしたちの世界で起きたことを思い返しながら、改めて考え、これからのことへの答えを見いだそうとしている。
 
 答えは出てこない。しかし、今の世界の有り様、とくに人間が作り出してきたさまざまなモノ、システムが、明らかに破綻しかけていること、それらが、この数百年の間に、大いなる破壊と憎悪と悲しみを生み出してきた事だけはわかる。
わたしたちが生み出してきたシステムには、なにも利点などなかったことも、残念ながらより明らかになりつつある。
今の世界で、少しでもわたしたちに生きていることの意味があり、これからも生きていくことが出来る可能性があるとしたら、
それが許されているのだとしたら、それは生み出してきたシステムの問題ではなくて、
わたしたちに多少なりとも残されている、古の昔から変わらない、根源的な道徳観のおかげかもしれない。
それは、人間性 ともいわれるものだが、それがある限り、新たな世界への希望もあるし、わたしたちが生き続けることへの
根拠にもなり得るのだろう。

いまのわたしたちが生きる世界のシステムは、もはや破綻しかけている。
それに縋って生きることはできないし、許されないことだろう。
わたしたちは、それに組み込まれてしまっているのだが、しかし、その異常さに気がつき始めているはずだ。
だとしたら、少しずつでもいいから、そこから抜け出していかねばならない。
それは簡単ではないし、さまざまな軋轢をも生じるかもしれない。
しかしそれでも、それだけが希望であるとしたら、他に選択肢はない。

まずは、意識もしていない人たち、理解出来ない、体感できない人たちへのきっかけ作りが必要だろう。
そういう人たちが増えていけば、それは明らかな希望の光となる。

メディアが日々垂れ流す、したり顔で垂れ流す報道やさまざまな情報に惑わされることのないよう。
自分の頭で考えよう。
わたしたちの脳は、自ら考えて道を切り開いていくために存在し、その能力が備わっている。
そのように作られているからだ。
たかだか数百年、あるいは数十年の間に人間が作り出した空虚になど支配されることはない。
わたしたちに、DNAレベルで与えられている大いなる真実を取り戻そう。
そうすることでしか、わたしたちが生存していく道はないのだから。



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by shmurat | 2018-03-31 12:42 | 日々徒然の記 | Comments(0)