ジャーナリストとは 伝えることとは 

 これを書いている今も、まだ何人かの日本人がシリアやイラクで囚われの身になっている。彼らは、その資質がどうあれ、ジャーナリストという立場で現場に行き、そして現地武装勢力や当局に捕まっている。
 ここでは、彼ら個人のことを批判したり、あるいはその動向についての情報を書くということではなく、(少しは私も知っていることがあるが、ここではそういうことには一切触れない)、私たちが、海外の戦場などの現場を取材するときのスタンスというか、心構えというのか、あるいはどんな意図を持って、または覚悟で臨むことが望ましいのかというようなことを書いてみたい。
 紛争地取材の基本は、まず絶対に死なないこと。もちろん、これは自分で全てを制御出来ない以上、死んでしまうこともあるとは思うが、生きて帰るために、事前のリサーチ含めて、入念に準備をする必要がある。この点に関しては、多かれ少なかれジャーナリストを自称する人たちは、熟しているとは思う。そして、このことは、あくまで自分の命の問題なので、死ぬのが自分だけであれば、ある意味自業自得でもあり、また職に殉じたともいえるのかもしれない。
 もう一点は、より重要なことだ。これは、現地の人に迷惑をかけないこと。または、自分が現地に行き、起きていることに介在することによって、状況を大きく変えないこと。
 ジャーナリストの中には、起きていることを伝えるということ以上に、自身が主人公、あるいは主題になってしまうような人物が少なからずいる。または、起きていることや、その地域の文化や歴史、習慣などに無知なことで、状況をかき乱してしまい、現地の人たちとの軋轢を生み、そのことによって平穏な取材活動が出来なくなるといった事態も生じさせる人も少なからずいる。
 これらは、ジャーナリストの適正とも関係してくる問題だと思うが、起きていることに対して心から憤りを持ったり、悲しみを共有し、それを静かに伝えるということが本来私たちがやるべきことだと思うが、世界的に話題になっている場所、あるいは誰も伝えていないが、伝えるべきことが起きている場所にいることによって、取材者が平常心を保てず、まるで自分が何か特別の力をもった人間だと勘違いしたり、あるいはタレントにでもなったかのように錯覚するような人たちがいて、それが本来の任務を忘れて、自身の名声や金銭欲のために動いてしまうことになる。そしてそれは結果として、正しいことを伝えず、表層のみのセンセーショナルな報道へと繋がっていく。
 また近年増えているのが、自身が主人公になってしまうことで、それはつまり現場で死んだり、囚われの身となるということでもあり、それを利用しているような人も見受けられるし、またそうなることによって、現地の誤った印象を多くの人に与えてしまうということにもなり、それが取材される側の地域の人々と、取材する側の地域の人々との意識の差、対立として出てくることがあり、これは非常に好ましくない。
 
 そもそも報道するということに、どれほどの意味があるのだろうか。
私は、自身もそういう現場に長くいたのだが、あるとき伝えることの意味、その意義や効果を考えてしまい、以来いわゆる報道する人間としては、現地に関わることが出来なくなってしまったということがある。
 
 たとえば、今シリアやイラクで起きていることは、極めて憂慮すべき事態ではあるが、それはある意味運命でもある。もちろん、起きている事態が、さまざまな政治的思惑や経済的な野心などが絡み合って起きている面はあるが、そういうことも含めて運命と捉えることはできないだろうか。
 つまり、そこに行って何をどう伝えようとも、真実は伝わらないし、また伝える内容が悲惨であるほど、ますます私たちの意識は、現場で起きている本質からズレていく。共感するどころか、ますます理解できなくなり、思考はネガティブな方へと動いていき、結局は他人事へとなっていく。
 これらは、伝える側の問題が大きく、伝える人間の資質とも関係してくる。そして、ジャーナリズムというものを仕切っている、大手メディアの姿勢へと問題は行き着く。つまり、センセーショナルに報じて、多くの人の目を惹き、話題になり、そして利益へと結びつく。ジャーナリズムは結果として、営利目的に過ぎないのだ。
 ジャーナリストたちがよく言うことは、不正義が起きている現場から伝えることにより、状況を変えていくことが出来る。悲惨なことを伝えるのは、ジャーナリストの義務だ。云々。
 しかしそれは嘘だ。ジャーナリストが介在して事象が好転したり、酷い人道的事態が解決したりしたことは、ほとんどない(全くないとはいえない)。たとえばパレスチナの問題があるが、70年以上にわたって多くのジャーナリストたちが現地へ行き、報道してきた。数々の映像、写真、文章で、起きていることの不正義や犯罪などを無数の媒体に発表してきた。その結果として現在の状況はどうなっているだろうか? 何も解決していない、どころか状況は悪化しているといって過言ではないだろう。
 それでは、シリアやイラク、あるいはアフリカのコンゴやソマリア、その他いくつもの場所で起きている戦争や犯罪、人道的な危機を放置していいのか、ということは、多くのジャーナリストたち(あるいは支援に関わるNGOや国連機関など。これら人道支援の問題はまたあらためて書きたい)が言うことだが、私は外部の人間や機関が介在することではないと考えている。
 どれほど酷いことであっても、永遠に続くことはない。多かれ少なかれ、自浄努力もされているし、人々は平穏な暮らし、社会を望んでいることは間違いないので、必ず終わる。結果として紛争前と同じ社会にはならないかもしれないが、少なくとも道を歩いていて殺されたり、いきなり空爆されるような事態は終息していく。
 報道され、多くの人たちが知ることによって、無数の個人や機関が介在するようになり、結果そこには金銭の流れが生じ、紛争は終わりにくくなっていく。そして、現地の人々は(政治家や軍事指導者はまた別かもしれない)ますます酷い状況に追い込まれていく。そしてそれがまた、ジャーナリストや自称人道家たちの目を惹き、利益を生み出す。現地の人たちの多くは、ますます悲惨になっていく。という、負のスパイラルである。
 今起きているジャーナリストの拘束などの問題は、もともとこうなることがわかっていた事案でもある。詳細は控えるが、ニュースなどでも、メディアは知ってか知らずか、伝えていないことがいくつもある。また、それに対する人々の意見も、多くの場合的外れである。ではどうするのが一番いいのか、それは放っておくことである。
 また、ジャーナリストが主人公になってしまうような、この数年来起きている出来事でいちばん困るのが、ニュースのネタになっている本人はいいとしても、私たちがその後取材がやりにくくなってしまうことだ。政府は私たちの行動を阻止しようとするし、また現地でも報道されるので、私たちが妨害、拉致などされる危険が高まる。結果として、現地に行くことが難しくなってしまうのだ。
 この問題については、公の場でも語ることが出てくると思うが、極めて重要なことであり、広く人々と語ることは意味があると考えている。
 
 自分の勝手な都合で起きていることに介入する人物のせいで、ますます現地のことが伝えられない、あるいは誤ったニュアンスで伝えられるようになっている。そしてその間にも、多くの人々が命を落とし、故郷を追われ、財産を失い、絶望感は高まっている。これほど不条理なことがあろうか。
 私は、ジャーナリズムとか、写真報道とかに対して、常に考え続けてきた。そして、その結果として、かつての自分であれば行っていたであろう、今のシリアやイラクのような現場にほとんど行かなくなっている。私は、多くのジャーナリストたちが、もっと自分がやることによって生じる結果とか、自分が行こうとしている現場の歴史や文化、あるいはニュースにはならない小さなことに目をとめ、熟慮に熟慮を重ねて考え、想像することを望む。仕事だとか、利益だとか、名声だとか、そういうことはまったく唾棄すべきことなので、なによりも現地のこと、当事者の人々のことを考えて欲しい。また、起きていることを、自分の価値基準や自分の文化や習慣に基づいた色眼鏡で判断するのではなく、彼らの目線で考えて欲しい。
 そういう意味で、真のジャーナリストというのは、世界でも極めて少ない。またそういうことと相まって、世界の混迷は深まるばかりだが、それさえもが運命でもあり、私たちはそれに適応しながら、またそれぞれの文化や歴史を考えながら、これからの世界を想像し、どうあるべきか、また自分たちが何を為すべきなのかも含めて考え続けていかなければならないと思っている。


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by shmurat | 2016-11-06 09:14 | 写真で伝える、ということ | Comments(0)