9.11から15年を迎える中で

 あの日のことはよく憶えている。
あの出来事が起きたとき、私は自分の部屋で二日後に迫った取材出発に向けた準備をしていた。取材のことで頭がいっぱいだった。また、何度も行っているその地域の状況が気にかかりながらも、いつもの友人たちに会えることを楽しみにしていた。
 そんなときに、知己の編集者から電話があった。「すぐにテレビをつけてください!」
何事かと思いテレビをつけると、煙を上げるツインタワーが映っていた。起きていることを理解するまで、少し時間が必要だった。テレビ画面を通して目の前で起きていることは理解出来たが、理解すると共に何故起きたのか、誰が起こしたのか、これから世界はどうなるのか・・・、などのことが目まぐるしく脳裏を駆け巡り、ますますわからなくなってしまった。先ほどまでの、取材前にはいつも感じていた高揚感は、瞬時にどこかへ吹き飛び、なんとも形容しがたい不安と焦燥を感じ、先ほどまでの差し迫った取材に関する期待や意欲は、跡形もなくなってしまった。
 2001年9月11日。
その日から、世界は変わってしまった。もちろん、この地球や私たちを形作っている本質は変わらない、というか予定通りの法則に従って動いているのだろうが、私たち人間が近世以降積み上げてきた文明や、第二次大戦後の私たちが享受してきた暮らし、価値観などは、このときを境にして砂塵の塔のごとく崩れ始めたといって過言ではないのではないか。少なくとも、私の中にあった思いというのか、長い時間をかけて築き上げてきた世界観、信念や、中東イスラーム世界に対するイメージ、その歴史や信仰に対する確信的なものやこれからの世界への骨格ともいえる芯のようなものが、ぐにゃりと溶けるように曲がってしまい、もはや本来の形へは戻らない、戻ることができない次元へと入ってしまったのは感じる。
 
 あの日から15年が経つ。まだ15年ともいえるが、長い長い年月でもあった。そして、それは一瞬のように過ぎた時間でもある。

 さまざまな思いが、記憶の襞を過ぎっていく。幸運にも、私たちの多くは、いまでもこうして生きている。そして、紆余曲折はあったにしても、こうやってとりあえずの平穏のなかで生を長らえている。
しかし、あの日があったことにより、どれだけ多くの人たちが、命を落としていったことだろう。また、どれだけの人たちの人生が大きく変わってしまったことだろう。
 そのことを考えるとき、私はあまりにも空しく、あまりにも悔しい。そして、あまりにも悲しい。そして、この状況を創出した者たちへの怒り。怒りの感情は、思考の深化を妨げる。それはわかっているが、そのことを逆手にとってさらにそのような計画を為した人間たちには、怒りしかない。

あの日から、アフガニスタンやイラク、エジプトやリビア、イエメン、その他いくつもの国や地域で場所で、私たちと同じ人間の凄惨な叫びが苦悩が繰り返されてきた。そしてそれは、今でも続いている。数千万人の人たちの想像を絶する苦しみや悲しみがあり、それが絶え間なく続いている。そのような状況と併存しながら、まるで平穏なように存在している私たちの生。それはどういうことなのか。それには、どんな意味があるのだろうか。
 その問いに対する、本質的な答はなかなか出てこないだろう。実際のところ、その答を持っているのは、まさに「神」だけなのかもしれない。しかし、私たちは、私たちの限られた能力を屈しして、答を見つけ、それを行動に移していかなければならないだろう。なぜなら、おそらくそれこそが、私たちに課せられた運命なのだろうから。それを為すためには、大きな犠牲が必要となるだろう。私たちが生きるシステムの中に、大きな混乱が生じるだろう。それでも、それをやることが求められているのだと、私は強く感じることができる。
 そして、それをどこまで、どのような形で出来うるかに、私たちの命運もかかっているかもしれない。今を生きる私たちは、それほど大きな岐路に立たされている。私たちは、それを認識し、それに対して責任をとっていくのだ。
それにしても、この15年の間に繰り返された、文字通り非道な殺戮の嵐のなかで、私たちはいったいどのようにしてこれから生きていくのだろうか。

 15年前の9月11日に米国で起きたことを、ある中東の組織が起こしたテロで、それに関わったアラブ人たちが起こした犯罪だ。なんていう嘘八百を、いまでも信じている人は少ないと思いたい。あれは、より高度な、そしてまさかと思うような国や人たちが関わった、人類全体に対する犯罪、いや神をも嘲笑する企てだったということは、感覚的に理解されうることではあるが、真実はこの先長く明らかにはならないだろう。

私たちが意識すること、やるべきことは、テロの首謀者や実行犯、その協力者とされる人たちを糾弾し続けることではない。そうではなくて、誰があのことを起こしたのか、どうして。そのことをより深く掘り下げて、そして私たちは声を上げなければならないだろう。私たちがもし動き出すことができなかったら、私たちにとっても未来は、もはや生きていく意義もないような次元にまで落ちていくことになるだろう。

私は、昨年来、いくつかの講演を行ったが、そのうちのあるところでの講演で、ある若者が「許す」ことの意義を述べ、許しからこそ私たちの明るい未来への共生も生まれる、ような主旨のことを述べた。しかしそれは物事のごく限られた一面しか見ていない事だと思う。そして、起きたことを明らかにせず、罪を犯した者が謝罪も補償もせず、そのうえで許し合って共生していくということは、あり得ないということ。それを多くの人には理解して欲しいと思う。

いま15回目の911を迎えるにあたって、過ぎ去った過去ではなく、多くの人たちが改めて考え、今シリアなどで起きている状況にも思いを馳せ、その上で意識を同化し、彼らの為に祈って欲しい。

911から15年ということで、改めて私たちにとっての転換点となったあの出来事を思い返し、私たちの新たな未来へ、共生と繁栄の時代への思いを新たにして、そしてこの15年の間に、理不尽にも命を落とさざるを得なかった人たちへの祈りを捧げて欲しい。

この日には、世界中のメディアが911の特集をするだろう。日本のメディアはその点かなり地味な報道に終始するかもしれない。しかしだからといって、日本が関係ないわけではない。今ではより明らかだが、日本政府はより米国追随を強化しているし、イスラエルとの兵器共同開発にも乗り出すなど、世界を崩壊へと導く勢力の側につくという、極めて誤った道を邁進している。
 世界には、60億の人が生きているとすれば、60億通りの考えがあり、生き方がある。イスラームと一括りにして、まるですべてのムスリムたちがアルカーイダやダーイシュ(IS)のような考えをするかのように煽り立てるメディアも悪いが、そういうことを単純に信じてしまう人々の民度の低さは、もはや救いようがないともいえる。
 ひとことで言えば、想像力の欠如。これに尽きるのではないか。少し考えればわかることだろう。そして、私たちの自由な考え方や平穏に楽しく生きていくことを阻害しようとしているモノを、私たちは見極めて、それに抗していかなければならないのだと思う。

 この日、米国での犠牲者を追悼する人は多いと思う。だとすれば、もう少しだけ思いを拡げて欲しい。そして、アフガニスタンやイラク、シリア、リビアやイエメン等々、今この瞬間にも絶望と苦悩の中にいる人たちへ思いを馳せて欲しい。世界を住みにくい場所にしている権力者、そのシステムに同調するような考えから脱却して欲しい。そして、私たちと同じ平和と家族を愛し、未来への夢を抱いている人々と意識を共有してほしい。
 
 それが、世界を平和にして、希望ある未来を確かなものにしていくことの第一歩だと信じる。





















































































































































































































































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by shmurat | 2016-09-10 17:48 | 今の世界を考える | Comments(0)