自然に身をゆだねる

 今月の上旬から一週間ほど中国地方を旅してきた。
島根県の飯南町、広島県北東部、島根県沿岸部、鳥取県の一部。
夏の暑い季節でもあり、また敗戦記念日からお盆へと連なる時期でもあり、体力的にはかなりきつい面もあったが、関東にいるのとは違う、濃い自然の中で、
五感で自然な感覚を感じることの出来た旅だった。
 私たちの多くは、日常の中で自然を忘れ、あるいは自然が何かを意識することもないままに、非自然の中で慣らされて過ごしている。
圧倒的に自然が近い場所で数日でも過ごすことにより、常日頃忘れていた感覚を取り戻し、また今の世界のことや私たちの住む国のこと、またかつて私が度々足を運び、今は戦火に包まれている地域のことなど、取り留めもなく思いを巡らし、冷静に考える時間を持てたことは、得がたい経験だった。
 一週間で2000キロを超える距離を運転してきたので、いまでもまだ体の疲れを感じてはいるが、早くもまた旅をしたいという思いが沸いてきている。
旅をすることにより、人間は忘れがちな私たちの生きることの意味や、この地球の一角でさえも普段感じることも見ることもないさまざまなことを見聞する機会に恵まれ、そこからまたさまざまな直感を得て、これからの生に繋げていく。
 帰ってきて、またストレスのたまる日常に戻りながら、そんなことなども思いながら暮らしている。

帰ってきてすぐに、四国の伊方原発が再稼働したという報道に接した。瀬戸内の美しい自然、まさに神に与えられた恵みを感じられるはずのところに建てられているこの醜い施設だが、そこでこのようなものが存在することもすでにおかしなことだが、それがまた再稼働し、伊方の人たちのみならず私たちすべてを際限のない危険に晒すことになっている。ということに、思いの至らない人たちが少なからずいるという現実。
 恐ろしく、また悲しむべき事実だ。
電気が云々とか、雇用が云々とか、いろいろな理由が述べられている。また核燃料サイクルのことに政府は触れているが、これに至ってはもはや思考が破綻し、自然の摂理に挑戦しているとしか思えない。
自然の摂理に対する挑戦とは、つまり神への挑戦であり、その結果なにが生ずるかは明らかであるのだが、そういうことに思いが至らないということは、すでに思考停止状態になっているということだろう。さまざまな利権があるのだろうが、そういうことを乗り越えて、せめて50年100年先を見据えていきていかなければならないのだが、残念なことである。
 
 さて、この数日めっきり夕方から朝にかけては過ごしやすくなった。しかし、日中はまだまだ暑く湿気も纏わり付くようだ。とはいえ、こういった感覚を自然なものとして、そういう中で与えられた環境に感謝しながら過ごすことが大事なのであり、またそれこそが私たちに求められていることでもある。

 人間の力など、たかが知れている。そして、私たちには、自然を壊していく資格も権利もない。与えられた自然環境の中で、足を知りながら暮らすことが私たちの生であり、それを続けていくことしかないのである。

 私たちは、まるで自然を破壊し、挑戦し続けてきたかのように思っているが、それこそが私たちが少し前の歴史さえも忘却の彼方へと置き去りにしてきている証拠。わずか150年ほど前まで、いや70年ほど前までは、まだまだ与えられた環境の中で暮らしていた時代があったのだ。
 その当時に戻ることは出来ないだろうが、そのころのことはまだ記録に残っているし、さらに言えば前の方でも書いたが、今でもまだまだ自然は残っているし、その力を感じることが出来る環境がある。
 人間はさまざまな理由をつけて、自分たちが普段暮らし、それが普通だと思い込んでいるシステムの中へ戻ろうとする。それがまるで必然であるかのように。
わずか5年前に経験したことさえ、すでに太古の古文書のごとくである。

これからも何度でも書くし、機会あるごとに発言も続けていくが、私たちが現在暮らしている世界のシステムは、これこそが滅びゆくものであり、否応なく私たちは困難へと直面していくことになる。そしてその困難が目の前に起きたときに、それをどう捉えて対処していくか、そこに私たちの未来がかかっているのだろう。

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by shmurat | 2016-08-14 15:35 | 写真日記 | Comments(0)