生きること 有意に生きていくこととは

 時の経つのが異様に早く感じられる。
この数年は、とくにそう感じられるようになった。
ただ齢を重ねたから、そういってしまうことが簡単だが、それにしても無為に過ぎていく日々のなんとも苦しいことか。

思えば、30年以上前から、自らの意思で道を切り開いてきた。少なくとも、そういう自負はある。
先々までのヴィジョンを持ち、いつも少なくとも5年先、10年先の事を考えて生きてきたつもりだ。
しかし、不惑を過ぎたころからか、そのヴィジョンがはっきりと見えなくなった。いや、より正確にいえば、見えているのだが、
それがどうにも、自分が思うことやこう生きたいという考えと合致しなくなってきたのだ。

 さまざまなことが、明らかに空転しているなと感じたのは、この10年くらいだろうか。
それさえも、もっと前から見えていたことでもあり、それに対する対応をいくつもやってきたつもりなのだが、見事なほどに実りが少なかった。自分の考え方が古かったのだろうか、あるいは目まぐるしく動き続ける社会の中で、とくにこの写真やメディアの世界の動きのなかで、それに乗り遅れたのだろうか。そういう考え方もあるだろう。しかし、今改めて静かに考えを巡らせるとき、必ずしもそういうことではないということは感じる。
 これは、私の若い頃も同じだったのだと思う。いつの時でも、若く、仕事がうまく運んでいるときには、あまり気がつかない。そして、その当時の私には、当時の50代や60代の人たちが、愚鈍に見えた。でも、これはいつでも同じであり、またいつも違うことでもある。
 単に、仕事があるとかないとか、あるいはやりたいことが出来ているか云々ということよりも、社会とかこの世界に対して、どう対峙しているか、それによって何をどう感じているか、ということだろう。
 20年前と比べても、今の世界は明らかに末期症状にある。実は前世紀の末期には、この予兆はあったのだが、それから想起される事態があまりにも大きすぎて、対処しなければならないということはわかっていたが、どう対処していいのかわからなかった。
 改めて言うが、これは仕事があるとかないの問題ではないし、この社会でどう要領良く乗り切っていくか、ということでもない。
実のところ、原因の本質的な部分は見えているのだ。つまり、この社会で無難に生きていくこと、長いものに巻かれながら折り合いをつけて生きていくことが、私には耐えられなかった。だから、あるときから、明らかにおかしなことには反対したし、言葉に出して異を唱えてきた。仕事関連でも、明らかにおかしな対応をされれば、そのことをはっきりと言ってきた。その結果として、はじき出されたことも、一度や二度ではない。だから、今の状況は、ある程度までは自分が引き起こしたことの結果でもある。
 でも、それに対しては、後悔はない。正しい対応をしてきた自分を褒めてやりたいくらいだ。
過去は置いておこう。今更考えても仕方のないことでもある。しかし、今からの世界の中でどう生きるのか。それは、実にシビアな問題でもある。そして、それに関しては、実に多くの人たちが気がついていない。

数年前から、私自身の生にも、さまざまなことが起きた。仕事も家庭でもいろいろなことが起き、いろいろなことがまた変わり、変わりつつある。自分としても、過去にはなかったような軌道修正も行ってきて、それはさらに進路を見極めながら、修正を続けつつある。ただ、今起きつつあること、近い将来に起きることは、自分の意思だけでは如何ともしがたい部分もあり、そのときに直面したら、どう反応できるのか、それは正直なところまだわからない。冷静さを保ちたいが、社会が混乱し、崩落していくなかで、どんな対応をしていけるのか、説明がつかないのだ。
 
 ここまで書いてきた文章は、決して諦念の意図があるものではない、その逆である。実は、こんなときだからこそ、私は大きな希望を持っている。まだまだやりたいこともあるし、それは実はいままでの人生で、一番大きく意義深いことでもある。
だからこそ、今を大事にしていかなければと、日々気を引き締め、意気消沈しないように、やるべきことを忘れないように、前を見続けている。

 気がついている人たちの多くは、2011年のあの日から動きを変えた人が多いと思う。
それは、正しい反応だろう。あのことは、単なる事故や天災ではなかったし、ましてや人間が克服しうるような事象でもなかった。
あの出来事をどう捉えたらよかったのか。それは、ただひとつ。運命だったのだ。
そして、運命だったということは、それが私たちに対して、何かを伝えていたのであり、その「何か」を酌んで、自らの行動に転化していくことは、私たちの義務ともいえることだった。
 非常に見事にその転化を成し遂げた人たちもいるし、私のように、遅々としているような人間もいる。ただ、大事なことは、感じることができたのか、出来なかったのか。その点に尽きる。
 ほんとうに恐ろしいと思うのは、信じられないことだが、何も気がつかなかった人、薄々気がつきながらも、俗っぽい思考に負けて、以前と同じように生きている、いや以前よりも欲得の世界に埋没している人たちのいかに多いことか。

 私たちが現在生きている世界は、大きな転換の渦中にある。これは、間違いのないことだ。
そして、このなかでは、自分を信じて生きていくしかない。
そして、生きていく為の指針は、それが自分たちやこの自然、地球、宇宙を作り上げたあるシステムがあるのだが、それに反していないかということであり、それは人間が作り上げてきた科学やテクノロジーの遙かに上をいくものだ。
それに逆らうことは、まさに無駄であり、そしてなによりも恐ろしいことでもある。
私たちが生きていくうえで忘れてはいけない感覚。それは、畏れであり、恐れである。そのうえで、私たちは独自の道を見いだして生きていかなければならないし、その感覚からいっておかしいと思う動き、政治や経済やそれらを受容した社会で起きているさまざまな醜い動きに対して、異を唱えながらも、巻き込まれないようにしていかなければならない。

 できうる限り、感覚を信じて、それに沿うかたちで生きていく。それしかない。
そこから、私たちは、これからの世界への大いなる希望を持ちうるのだと思う。
そうだと思いたい。
そんなことなどを考えながら生きている、ささやかな日々である。

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by shmurat | 2016-07-12 21:34 | 日々徒然の記 | Comments(0)