私たちが生きているこの世界への思い 花の億土の彼方へ

 季節は夏である。

不快なほどに湿潤として暑い毎日。そのような不快さをさらに増すかのように、連日のようにメディアやSNSで溢れかえる選挙や政治絡みの雑音たち。私たちの将来の建設的なビジョンを語るのならまだわかるが、些末な言葉遊びや目先の由ない事柄に時間が割かれ、それに対して世間的には地位の高い人たち、インテリジェンスだと思われている人たちがしたり顔で語り続ける。それに輪をかけるかのように、シリアやイラクでの不条理な死の報道、米国での不信の対立による死、世の中には何も良いことなどないかのごとくである。
 私は、ことあるごとに、先人たちや現代に辛うじてまだ生きている知性たちの言に耳を傾け、彼らが書いた書物を読みふける。若いときから、そういうことを繰り返してきたが、近年はそういうことが増えている。書物の中に逃げ込む時間が増えている、とでもいおうか。そういうものの中にしか、生きている上での指針が見いだせなくなっている、とでもいえばいいのか。
 先日まで、石牟礼道子さんの「花の億土へ」を読んでいた。
日本の原風景としての水俣での美しい日々、彼女はそのときの最後の瞬間を辛うじて実感として記憶している人の最後の世代だろうか。彼女の感受性豊かな感覚で書き連ねられた文章、静かに土地に溶け合って生きている人たちの匂いや重みを感じる文章は、とても細密であり、当たり前の日常を描きながらも、飽きることなくその世界に入り込んでしまう。
 そんな中で、主婦として詩人として、静かに暮らしていた彼女の日常をも、あの水俣病は完全に変えてしまった。二度と元には戻らない、恐ろしい悲劇であり、永劫に続く哀しみの中へと。
 彼女は、水俣病というもののなかへ。単に、病に直面し、その患者たちの苦難や崩壊していく地域社会の波に飲み込まれていった、ということだけではなく、チッソという会社のあまりに非道な対応、政府や自治体然り。地域社会の患者たちに対する冷たい視線、患者たちの想像を絶する苦悩。そしてそれ以上に、日本の原風景とも言える美しい自然が汚染されて、そこで培われてきた文化や伝統が廃れていくことになったその事に対する哀しみを、静かなタッチで綴り、声高に怒りの声を上げたり、ネガティブな事を叫び続けるのではなく、起きていることを、変わりゆく自然を社会を人々を、淡々とまたときには滑稽にも描いている。
 そして、現在に至るまで、彼女は水俣を見続けると共に、日本という国の破滅へと進む道を見続けてきた。「花の億土へ」では、先の東日本大震災、そこで起きた福島第一原発の大事故。それは、水俣から連綿と続くこの国の破滅への道、自然の声、神の声に耳をふさぎ、人間の驕り高ぶりをさらに突き詰めていくこの国に起きた、大きな警告であり、教訓であったはずだったが、それさえもこの国の政府、さらに多くの国民たちには届かなかったのだ。それに対する彼女の絶望は大きかったと思う。しかし彼女は、そんな中にも、希望を見いだす。
 彼女が思いを綴るように、たしかに私たちには未来はないかもしれない。私たち人間は、それほどに傍若無人な振る舞いを行っているし、この地球を破壊しようとして、また創造主たる神に挑戦しているのではないかと思えるほどだ。
 しかし、もしかしたら、今は今まで続いてきた古い文明が解体され、新しい文明、価値、光が創成される時なのではないか。
そう考えると、この暗澹たる世の中の出来事が、新しい誕生への、それにいたる為の産みの苦しみのときなのかもしれない。そう考えると、肩の荷が一気におりて、楽にならないか。そして、殺伐とした荒野の彼方には、たしかに一条の光が見えている。そんな気がしてきた。

選挙の結果に一喜一憂している人たちも多いだろう。
しかし、そんな些末なこと(敢えて言わせてもらう)に囚われている場合ではない。以前にも書いているが、私たちはもっと大きな視野で物事を捉えなければならない。今どれほど不条理と思えることが起きていようとも、それには意味がある、そう考えることは出来ないか。一見非道なことが起きているときには、その裏に何があるのか、それの意味するところはなんなのか。そこをしっかりと意識していこう。

 気がついている人もいると思うが、この国にはこれからも試練が襲いかかるだろう。そして、それを私たちはしっかりと受け止め、それこそ新しい世界を作り出すために立ち上がらなければならない。
既存のシステムに反対するのに、何故既存のシステムの中で戦うのか。敵の土俵で戦って勝てるはずがない。
新しい価値観で、新しい道へ、光を見失わないように。



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by shmurat | 2016-07-10 21:47 | 日々徒然の記 | Comments(0)