自然への溢れる思い

 言うまでもないが、私たちが生きているのは自然が存在しているからだ。自然というのは、この世界を統べる根源でありすべてである。地球や宇宙などのように私たちがその大きさを想像すらできないような大きな存在から、足下の砂粒や小さな虫たちや一瞬のうちに五感で感じることすべてが自然の起こす奇跡であり、私たちの存在、その命でさえも、自然の創造と循環のプログラムに組み込まれたひとつのコマに過ぎない。とはいえ、それぞれが大切な存在であり、それぞれが調和を保ちながら生命の息吹を繰り返しながら生きているのだ。
 私たちが、そんな当たり前のことを忘れてしまったのは、いつの頃からだろう。
元来、人間たちは自然に生かされていることを意識し、日々感謝しながら慎ましく生きていたはずだ。ことあるごとに感謝の祈りを捧げ、自分が得た実りから自然に捧げ、あらゆる事のなかに自然の奇蹟を見いだし、喜びを見いだし、生きる糧とし、また恐ろしいことや悲しいことがあると、自分たちが自然の意に沿わないことをやったに違いないと考え、自然の怒りを静めるためにまた祈り、思いを巡らせてきたのだろう。
 自然、ということは、いつのころからか、神、へと変わってきたのかもしれないが、それは結局同じ対象のことであろう。自然という大きすぎてつかみ所がないものに対して、神ということによって、なんとなく想像しやすくなり、また自分たちの意が通じるかもしれないという思いを抱き始めたのかもしれない。
 
 しかし、直接に自然の中で生かされていた暮らしから、いつしか神と繋がる暮らしへと変わっていくなかで、私たちの意識が少しずつ変容していったことは間違いないことではないかと感じる。得体の知れない大きな存在の前では、自分たちはただ静かに、慎ましくしているしかないのだが、それが自分たち都合良く解釈するために作り上げた存在(神の考え方については、多様な意見があることを知った上で、敢えて書くが)に対することになったときに、どこか自分たちの意思が通じる、あるいは自分たちが好きなことをやっても、神は許してくれる、というような勝手な考え方が芽生えてきたのではないか。

 今世界を支配している主要な信仰は、この4000年以内に生じてきたものだと思うが、それらは人間の都合を多分に反映し、神(自然)の代理のような人間までも生み出して、それが人間界の支配と被支配にまで及び、また支配する側は、ともすれば自分が神であり、自然を統べていると勘違いするようになってしまったのではないか。

 とくに欧州で始まった産業革命以降の世界、自分たちの利権と支配のために世界中に侵略と殺戮を繰り広げた世紀が続き、大きな戦争の時を経て、世界は核という禁断の果実を実用化してしまい、現在にいたる。

 それは、人間が触れてはいけないもの、ましてや人間が制御できるような代物ではない、ということは、多くの人たちが知っていることだと思いたいのだが、残念ながらそうでもなさそうだということが、近年明らかになりつつある。
 原爆、中央アジアや太平洋諸島での幾多の核実験、チェルノブイリ、スリーマイル、そして福島・・・。どれだけ繰り返せばいいのだろう。
 どれだけの人たちが命を落とし、生態系に異変を起こし、健康被害は増え続け、自然界の循環が崩れていく。これらは、私たち人間が侵した致命的な罪である。この世界を統べるのが大いなる自然であることは自明の理であるが、それを取り返しのつかない形で破壊、汚染、し続けているのが、現在の人間であり、これがもたらす破滅的な出現は、想像するまでもなく予見できることではないのか。

 一昨日から、伊方原発再稼働への動きや、高浜原発の稼働期間を20年延長するという話など、原子力発電所絡みの、非情に愚かで取り返しのつかないことに繋がる報道に接し、以前から考え続けていることと併せて、少し考えをまとめてみた。
 こういうことを言うと、多くの人たちがあからさまな嫌悪を表し、また嫌がり、あるいは偏った考えを持った人だと思われることもあることは承知している。しかし、そういう人たちの思考体系のなかに、自然を守っていこう、自然を大事にしよう。未来のために環境を維持していこう、などの考えが欠落していることは間違いない。
 つまり、そういう人たちに共通しているのは、原発がないと自分たちの暮らしが維持できないとか、しっかりと管理すれば問題ないとか、人類の発展に不可欠だとか、諸々の意見があるが、いずれにしても、人間中心、今生きている自分中心であり、便利さに慣れすぎてしまい、たとえば電気がない暮らしや自然に接する暮らしに戻れない(戻りたくない)人たちの考え方だ。電気がない、というと極端ではあるが、電気をあまり使わない、無駄に使われている電気は相当多いので、そういうものを削減していくということであり、これは理にかなっていると思う。
 そして、原発推進、容認、無関心の人たちの考えは間違っている。そして、何故間違っているかというと、私たち人間には、自然界を制御している大いなる力や意思(これは、宗教的にいえば、神の意志ということになろうか)に逆らったり、異を唱える資格はないからだ。
 また、高浜原発の期限延長を決めた原子力規制委の判断をみていても、危険性を最優先に検討したというよりは、政府や電力業界の圧力に屈したという面が明らかだ。新聞報道では、認めないと、電力業界から訴えられる可能性も指摘されているような記述があったが、これなどはまったく意味不明で本末転倒だ。そもそも電力業界にそういうことをやる資格も権利もないし(本質的には、だ)、仮にそうなったとしても、今後起きうる地震や想定出来ないトラブルなどの危険性を指摘することなどにより、裁判では勝てるはずだが、そういう煩雑な手続きをも避けて、いちばん安易な道を選んでしまった規制委の存在価値はないといえる。

 悪しき前例を作ってしまったことにより、今後さらに再稼働申請も増えるだろう。政府、経済界、電力業界などが正しい判断を出来なくなっている上に、メディアも存在価値を無くしているなかで、私たちが人間として自分の胸に手を当てて考えて、行動していくこと。それが、かつてないほど求められている時に、私たちは生きている。
 
 

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by shmurat | 2016-06-20 10:17 | 日々徒然の記 | Comments(0)