報道写真家と視覚物語作家

 今現在、フォトジャーナリズム界や広く写真界を賑わしている話題の一つに、世界的に著名な写真家スティーブ・マッカリーが、写真を加工していたといわれる問題がある。元々は、イタリアかどこかの展覧会で展示されていた彼の写真の一部に、フォトショップで加工したときのやり残しや何かの間違いがそのままになっている部分があり、それを目ざとく見つけた写真家が指摘してから騒ぎが大きくなったのだ。
 マッカリーの今までの写真がことごとくチェックされ、さらにいくつもの写真の改変が見つかり、またマッカリーがそれら写真を削除したりしたので、騒ぎがより拡がったというところだろうか。
 
http://petapixel.com/2016/05/06/botched-steve-mccurry-print-leads-photoshop-scandal/

この騒ぎはまるで中世の魔女狩りのごとくに拡がりをみせ、なかなか収まるところを知らないかのごとくである。
 日本の写真家たち、フォトジャーナリストたちがどう考えているのか、何故か私のところにはそれらの意見は伝わってきてはいないのだが、誰もが関心を持ちまたそれぞれの考えを持っていることだと思う。

 この問題は、改めて私たち全体が考えるべき大きな問題を孕んでいるのは間違いない。が、それはマッカリーの写真の善し悪しや、彼のやったことの是非などという矮小なことではなく、そもそも写真とは何か、あるいはフォトジャーナリズムとは何か、その存在意義は、などの根源的な問題にも関わってくることかと思う。事が本質に触れることでもあり、なかなか話題にしずらいし、よほど確固たる意識を持っていないと、意見も言いにくいだろう。
 かくいう私が、それほど確信的に意識を持っているかどうかは怪しいのだが、ただ言えるのは、私は写真で伝えるということに、おおきな意義を持っていて、しかし自分の意識といわゆる写真、報道の業界とのズレが大きすぎ(それは、年を追うごとに乖離が拡がっている)、たとえば雑誌の編集者やギャラリーの担当者などと話しても、話がかみ合わないことが多く、結果として私がこの世界との接触をほぼ断っているような状況になっている。もちろん、多くの編集者やギャラリーやキュレーター、写真ファンたちにとっては、私が言っていることも、撮っている写真の意味合いも含めて、その真意、表層の裏側で表している真実なども、伝わっていないだろうと思う。もちろん、そこには私自身の作品の未完であるところも間違いなくあることは認めざるを得ないが。
 マッカリーの今回の騒動は、彼の写真があまりに有名になりすぎたから起きた事ともいえるし、また彼の写真があまりにも完璧であったから起きたことともいえる。また、彼に対する嫉妬や僻みは想像以上に大きかっただろうから、彼に反感を持ったり彼を出し抜こうと思っていた連中には、降ってわいた千載一遇のチャンスだったのだ。
 私自身は、実は彼が写真をどこまで改変しようが、あまり関心はない。しかし、それは少し残念でもある。彼の写真のファンでもあり、その素晴らしい世界に魅せられてもいるからだ。彼の写真は、あまりに完璧すぎた。だからこその今回の騒ぎである。
 では、今回のことで、彼の名声に傷がつくだろうか。あるいは、彼の写真は売れなくなるのだろうか。おそらく、そういうことは起きないと思う。一般に、フォトジャーナリスト(報道写真家ともいう)は、写真を改変してはいけないと言われている。撮影したそのままに(多少のトーンの調整や明暗の調整は許されるとしても)出すことが求められている。それが、事実を伝えることだとも言われる。しかし、彼は最新のタイム誌とのインタビューで、自分はVisual Storyteller だと明言している。つまり、フォトジャーナリストではなく、視覚物語作家だと言っているのだ。だとすると、もちろん改変は許されるし、ほぼ何をやっても良いことにもなる。と、私は考える。
 実際、フォトジャーナリストが何も手を加えてはいけないが、Visual Storytellerであれば問題ないということも、私には疑問である。それは、フォトジャーナリストとは何か、ということまで話を掘り下げて、さまざまな議論を深めて欲しいのだが、なかなかそういうことにはなっていかないのが実情であり、実際今回もそこまでの話にまで昇華していかないのだろうと思う。
 写真というものが、そもそも真実を切り取るものなのか。そして、その真実は、誰にとっての真実なのであろうか。そう考えると、私にとってはマッカリーの写真が大きく真実を歪めているとは思えないし、かといって彼の写真が真実を誰よりも鋭く切り取り、世の中の状況を変えていくところまで表現し、伝えているとも思えない。
 写真とは、真実を必ずしも切り取らないし、そういうことを(本来は)求められてもいないと思うのだが、どうだろうか。日本では「写真」という呼称で呼ばれることが多いが、実際のフォトグラフィという単語から忠実に訳すと、おそらく「光画」という単語がより相応しいだろうし(そして、多くの写真家や評論家、キュレーターたちは、それを知っているだろうが)、その語が想起させるイメージが、実際の写真の成り立ちやあるべき位置を表しているのだといえる。
 私の私見では、フォトジャーナリストとヴィジュアルストーリーテラー、報道写真家と視覚物語作家というのは、呼称はかなり違うが、その実本質の差はあまりないと思うのだが、どうだろうか。要は、自分がどう呼びたいか、呼ばれたいか、あるいは自分が表したい(伝えたい)ものは何なのかにもよるだろう。そして、そういう議論に果てには、実は何も本質的なものは残されていない。
 真実を伝えて世界を変えていきたいとしても、真実の一端から自分が感じた物語を人々に伝えたいのだとしても、いずれの側にとっても今回の騒動はある意味深刻であり、また実のところ、どうでも良いことでもあるのだともいえる。
 最後に私個人の意見をもう少し明確に表すとすれば、フォトグラフィという手段は、撮影しているときに簡潔させるべきだと思う。現場に行き、撮影したい視覚的な動きが起きているところに対峙して立ち、そこでカメラを構えて撮影する。その場でイメージを固めて、構図や色、光の入れ具合、露出状態も含めて、完成させることが、本来の写真であり、それが出来ないこと。あるいは、現場で渾身の一枚を撮っても、それ自体を写真家が、もっといえば受け手側がまったく理解できなかったり、よりダイナミックに色彩豊かに見せたい云々の欲求があるなかで、写真を加工するという行為が一般化し、フォトショップに代表される写真を根本から変えてしまうよなソフトウェアが開発され、それを扱うことが当たり前のごとくになってしまったことに、事の本質は隠されているのではないかと思うのだが、どうだろうか。
 マッカリーというひとりの写真家をスケープゴートにするのではなく、私たち自身が改めて自らの心に問い直し、より良い写真(光画)を撮っていくことが大切だということが、この問題が本質的に問いかけていることではないかと思う。


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by shmurat | 2016-06-02 18:27 | Comments(0)