わたしは、幸福(フェリシテ) プレレビュー

 まだ観賞していない映画である。
しかし、来日した監督のインタビュー記事を読み、映画の予告編を観て、その世界に引き込まれ、また監督の話すアフリカの人々のこと、この映画の舞台でもあるキンシャサの情景、一人の人間の日常、声を描くことにより、何よりも真のアフリカの姿の気配を感じることが出来ると思った。
 観ていないけれど、素晴らしいと確信できる映画。
それが、「わたしは、幸福(フェリシテ)」だ。

 アフリカ、と書いたが、アフリカといっても一枚岩ではない。アフリカというだけでは、あまりにも漠然としすぎている。大きな大陸の中には、数え切れないほどの異なる文化、原語、様々な暮らしがあり、それらを「アフリカ」という単語で総称してしまうことには、違和感もあり、また現実として無理でもある。

 映画の舞台は、コンゴ(1997年までザイールと呼称した)の首都キンシャサだ。物語の主な舞台は、大都市キンシャサの夜。そこに生きる一人の女性に光を当てている。
 通常の映画であれば、決して主人公にならないような、ある意味ありふれた女性の生きる姿。その声、彼女をとりまく現実、日常、それらは、彼女独自の人生でもあり、またアフリカ各地の人々の日常とも交錯する。ヒーローもいない、ドラマのような展開でもない、しかしエキサイティングで悲しく、過酷で、でも明るく、未来への一条の光さえ見いだすことができる、そんなキンシャサでの暮らしのある真実を描いている。
 これは、1960年の独立以来、数々の辛酸を舐め続けているキンシャサとそこに暮らす人たちの、無数のナラティブから掬い上げられた、一つの悲しくも躍動する幸福(フェリシテ)のナラティブである。

コンゴは、1960年にベルギーから独立した。長く過酷な植民時代が続き、19世紀から20世紀にかけては、ベルギー国王レオポルドの私領とされ、象牙やゴムなど多くの資源が収奪され、1000万とも言われる人々が命を落としていった。
独立は、資源が豊富なこの国に、バラ色の未来をもたらすはずだった。首相となった若き指導者ルムンバは、情熱に燃え、国を導こうとしたが、そのあまりに豊富な資源故だろうか、諸外国の思惑や介入、利権争いは終わることなく続き、ルムンバは殺され、モブツという傀儡が長く国を支配し、その間に国土は荒廃、人心も荒れ果てた。植民地時代以来に破壊されたのは、人間や自然だけではない。この国に連綿と続いてきた歴史や文化も多くが破壊されつくし、またモブツ時代の混乱が、現在でも尾を引き、2000年代になってから東部を主におきた内戦では、200万とも500万ともいわれる人々が殺された。ニュースでコンゴのことを扱うときには、たいてい戦争、難民、レイプなどの話題。しかし、その国の人たちの声は、大手メディアの報道からは、まったく聞こえてこない。

 この映画では、カメラを霧に覆われた上空から、地面すれすれのローアングルに据え、それを貫くことにより、普通の人たちの声やその世界で鼓膜を振るわす音、つねに鼻腔をくすぐる匂いや臭い、大地の質感や感触などまで、丹念に描き出しているようだ。

この映画は、今週土曜日から東京で公開が始まり、順次全国を回ることになるようだ。ハリウッド映画のように、ロードショー公開されることはないが、多くの人に観て欲しい映画である。
 そして、私たちそれぞれの日常と併存して流れるキンシャサの時間や空気にぜひ触れて、感じて欲しいと願う。そして、少しでも彼の地の人たちと意識を共有できたら。おそらく、映画の中のどこかで、意識がシンクロすることがあるはずだ。そのときに、観る者は、知らず知らずのうちにキンシャサの夜の裏通りに立ち、その喧噪と鼻をつく匂いの中で立ち尽くすことになる。

私も、この映画は是非観にいくつもりだ。見終わってから、改めて感じたことを書き綴ってみたいと思う。


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by shmurat | 2017-12-12 11:14 | 映画 | Comments(0)