静かに胸に手を当てて、往古の声に耳を傾ける

昨今の政治を巡るさまざまな動きは、いつものことだがとるに足りないことである。
政治家が党を鞍替えしたとか、ある党が別の党に合流したとかしないとか、書くことも煩わしいのであまり書かないようにするが、いずれにしても政治というものを職業に選ぶような程度の人間たちが、数千年の古の世から繰り返している、保身や野心、慢心などがいつになく表出してきているのは確かだろうが、これを経て、来月選挙があって、そして何も変わらないという、これもまたいつもの繰り返しである。
 話題の中心にいるある政治家は、「どのような手段を使っても云々」と発言しているが、自分が言っている言葉の意味を取り違えている。これは、実質としてそのような意味で言い、そのために準備し、これから行動していくのであれば、それは素晴らしいことだと思う。
 しかし、その意味合いは、現在の枠組みの中で、という枕詞がつくわけであり、つまり意味がないということになる。

最近は、北アフリカのモロッコ出身の作家の作品を読んでいる。
これは、モロッコという国の近現代史に材を取り、3人の男女が新しい生命を育む子供を連れて、一路「南」を目指す旅。行く先々で、死と腐敗に満ちた地を目にし、さらに旅は続く。目指す先は、イスラーム神秘主義の偉大な思想家であり、長老であり、聡明な指導者でもあったマー・エル・アイニーンが築いた都市スマラ・・・。
 読み始めてすぐに気がついたが、ル・クレジオが書いた「砂漠」に書かれていた世界と重なる部分が多く、文章の印象が非常に近い。どちらも、塵の動く音さえもが聞こえるほどの静謐な物語だ。そこに書かれていることがどれほど過酷であろうとも、暴力的で死臭に満ちていようとも、いやだからこそ、静謐さは読み進むにつれて増していく。
 ル・クレジオは、偉大で悲劇的で絶望的な史実と、幾世代か後の少女の辿る人生を、併走的に描いている。人間が生きていくことへの賛辞ともいえる。しかし、今私が読んでいる小説「不在者の祈り」を書いた、ターハル・ベン・ジェルーンは、救いと再生への旅を、静かなタッチで淡々と描いている。そこには、救いが(明確な形では)描かれているとはいえないが、しかし人間が生きることの意味。その本質に触れる部分が確かに描かれている。
 声高に叫ぶ人や、どちらが正しいとか非があるとか、そういった直接的なことは何も描かれていない。しかしそこには、今を生きる私たちへの普遍的なビジョンを密やかに明示してくれているように感じた。

現実の政治や現在の日本の状況に対して、ル・クレジオやベン・ジェルーンを引き合いに出すことに意義を唱える人もいることだろう。しかし、私たちは感情を直接的に刺激することに触れすぎている。人間の社会では、そういうことは避け得ないことかもしれないが、目先のことではなく、数十年先かもっと先のことを意識しながら生きていくうえでは、一歩も二歩も引いて、俯瞰的に世界を見渡すことも必要。日本からは遠く離れた世界の歴史や文化に材を取りながら、私たちに共通の本質的なことに気がつかせてくれる秀作であると感じる。
 少しでも多くの人たちが、周囲に満ちている猥雑さや悪のうねり、さまざまな雑音から意識を遠ざけて、より大切なことに気がつくきっかけを与えてくれることだろう。
 政治家の空疎なアジテーションに惑わされることなく、往古の声に静かに耳を傾けよう。そうすることで、感情の起伏に惑わされることなく、平常心を保ちながら生きていくことが出来るだろう。それは、個をしっかりと保持しながらも、古のマスと繋がり、それらを継承していくこと、それらから知恵を受け継いでいくことなのだ。


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by shmurat | 2017-09-28 20:11 | 今の世界を考える | Comments(0)