何を感覚として受けて生きるか

長い間、テレビを見ることを止めようと思い続けていた。
現代世界には、さまざまな情報が溢れている。そのなかには、有用な情報もあり、またどうしても知りたい、知る必要のある情報もある。しかし、テレビという機器を通して受け取ることが出来る情報の多くは、ゴミのような情報である。
そんなことも、もちろんわかっていた。また、近年は、そういうことにも気がついている人が増えているのも事実だろう。とはいえ、そういう人は、まだ圧倒的に少ないが。
 
 とにかく、ようやくテレビを見ることを止めた。
有益なことを受け取る以上に、無駄で自分の感覚を鈍らせ、考えなければいけないことから思考を逸らすような無意味な情報が溢れていたものから、ようやく解放されたのか。
 実質的には、そうともいえないだろう。
たとえ家でテレビを見なくても、一歩外に出るとゴミのような情報が溢れているのが現代の社会だ。
それらから逃れるのは、ほぼ不可能だ。完全に遮断しようと思えば、社会との関わりをシャットアウトする必要があるが、それは極めて難しいことだ。

 耳にはまぶたがない

と書いたのは、キニャールだったか。
 これはまさにその通りで、だからこそ、音で、言葉で、この世界は支配され、それを拒むことは出来ないばかりか、それに知らず知らずに影響され、取り込まれ、私たちの思考や行動は規定されていく。
自分が閃いたと思い込んでいる考えも、よくよく考えてみると、誰かが言っていたことだったりして、まったくの新しい思考というものはほぼ不可能だろう。
 見ることを拒否することは、難しいけれども可能ではあるが、耳から入る情報である、音をシャットアウトすることは、実質的に出来ない。だから、私たちは、視覚だけではなく、聴覚をも律して、不要なものを取り込まないようにしなければならないし、否応なく溢れ、侵入してくるそれらを避けるためには、べつの有用なもので置き換えなければならないのだ。

 しかしこれほどに無用な情報が五感を通して攻撃してくるような世界は、なぜ存在しているのだろうか。
そういうことを必然として容認する社会。それには、そこに生きている多数の人々の意志があり、こんな社会を支配しているモノの意志がある。支配される我々が、深慮してはいけないし、社会の奥に潜んでいる企てに気がついてもいけない。だからこそ、雑多な情報の氾濫のなかで、わたしたちは生きることを余儀なくされ、そして飼い慣らされ、長いものに巻かれ、身動きできなくなり、一生を終えるのだ。
この世界が巧妙に出来ていると思うのは、そういうことに違和感を憶えたり、ふとしたきっかけで何かに気がついてしまった人たちでさえも、結局は惑わされて、誤った方向へと、真から逸れて行ってしまうことだ。
 抵抗することは、実質的な意味合いで抵抗を続け、目の前から霧を取り払うことは、かくも困難である。

テレビというメディアを拒否することは、いくつもの道を阻む壁のなかの、たったひとつを取り払ったに過ぎない。
それでさえ、家の中では功を奏したように思えても、外に出て行けば、テレビはいたるところにあり、ついそれに思考と引き込まれることは、大いにあり得ることだ。
 また、思考まで支配されている大多数の人たちとは、あらゆる面で会話が成り立たないものだが、それを制御していかないと、自分がますます生きにくくなっていく。
 
 テレビを拒否したとはいえ、私の手元には、いつでも見ることができるインターネットの世界が拡がっている。それがあるから、このブログも書いているのだが、この世界はほんとうの意味での闇であり、そのなかに拡がる深淵は、どれほど深いのか想像もできないものだ。

今の世界が、かつてのある時代よりも劣っていると考える人がどれほどいるだろうか。
私ははっきりと確信しているが、今のこの世界のシステム、そこに生きる私たちの思考形態や暮らしなど、どれをとっても私たちの祖先がある時代に生きていた社会よりも、劣っている。劣化しているといったほうがいいだろうか。
決して懐古趣味ではないが、かつてのある時代に、何が優れていたのか。その思考を再び明らかにし、引き継いでいくにはどうしたらいいのか。
 私たちは、それを真剣に考えていかないと、私たちの生は、文字通り仮想現実と混淆し、実体の伴わないものへと変質してしまうだろう。
手遅れでなければいいのだが、すでにそこから抜け出すことは至難であり、私はそういう点では、非常に悲観的にならざるを得ない。



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by shmurat | 2017-09-09 11:24 | 日々徒然の記 | Comments(0)