人々の物語を聞き、想像すること

久しぶりにブログを書く。
先に、お世話になった編集者Tさんの訃報に関して書いたが、それ以降なかなか落ち着いて何かを書こうという意識に及ばなかった。また、日々いろいろと熟しながらも、不特定多数の人たちに報せるような出来事もなく、時は過ぎていく。
 今年の夏の不安定な天候による、精神的な不安感もあるのかもしれない。
いずれにしても、今これを書きながらも、とくに書くべき事を思い出したわけでもない。

 相変わらず、世界ではさまざまな事が起きているのだけれど、悲劇的、悲しみを増すようなこと、あるいは怒りを禁じ得ないことや不条理の極みのようなことも、日々起き続けている。とくに、シリアやイラク、パレスチナなどでは、もはや終わることがないのではないか、と思えるほどに、旨を痛める事態が起き続けているのだけれど、これらのことも大手メディアの報道に接しているだけだと、まるで人ごとになってしまうし、興味本位の突発的なイベントになってしまう。そしてそれに接する人たちのほとんどは、映画やドラマに接するごとくにそれらを受け取り、そしてすぐにそれらから意識を逸らされて、それぞれの日常に引き戻っていく。
 しかし、それらの報道のなかにも、何かしら真実に触れる一瞬があったり、ただテレビ画面を流れていく映像にほんのひととき映り込んだに過ぎない人や光景のなかにも、真実が映り込んでいることもある。
ただ、それらに気がつくことは至難の業であると思うし、さらにそこから表層の無機質な報道から意識を逸らして、それぞれの人たちの物語へと入っていくことは、ほとんどあり得ないような困難さでもあるのだろうとは思う。

 私は、パレスチナやイラクなど中東、アラブ・イスラーム世界を主に、世界各地でさまざまな事象を体験し、多くの人たちのナラティブを聞いて、その一端を経験してきた。
 教科書に載っていたり、あるいは公式の歴史とされるものも大事だと思うが、そういう事実の羅列以上に、経験した人たちの物語が持つ意味合いの大切さは、何物にも比肩できないものだ。公式な歴史、政治家が語る無機質な真実に血を通わせるのは、時代のうねりや戦乱の中で必死に生き抜いてきた人たちの物語なのだと思う。
 この10年ほどに私が思考を重ねてきたことの意味は、まさにそれらの物語(ナラティブ)を改めて思い出し、それらを再考し、血の通った物語を紡いでいくことなのだろう。
 もちろん、それらは私の中ではまだ結実していないのだが、私が想起しうるナラティブの数々から、少しでも鮮明な像を描き出し、それらを残して伝えていくことをやっていかねばならないだろうと思う。それらを少しでも形にしていかないといけない。それが、私の生きている意味ではないのかとさえ、思う。

それらは、もちろんこのブログには書き連ねることはないだろうが、その片鱗だけでも追々書いていきたいと思う。

季節はお盆であり、日本やアジアの人々が経験した大きな戦争を改めて思い出し、鎮魂を願う時でもある。そんなときだからこそ、私はさらに、シリアやイラク、また戦乱の中で生きている人々のことへと、それぞれの思いを至らせて欲しいと思う。
亡くなっていった命、苦しんでいる命、そしてこれから生まれてくる命への思いを新たにする、そんな時が今なのだ。

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by shmurat | 2017-08-13 09:56 | 日々徒然の記 | Comments(0)