過去から未来への記憶

 連日のように、世界では誰かが死んでいる。
人間には、さまざまな形での死があり、それぞれの事情があり、また死に対する捉え方や思いもまた微妙にズレている。

 暑い夏の季節は、死者を悼む季節でもあり、また死にゆく旅を始める季節でもある。
何故か、この時期に死出の旅に出る人が多かったのは、何故だろうか。
そこには、世界の土地柄や伝統などの傾向がとくにあるとは思わないが、それにしても夏には死の気配が漂っている。

さて、聖地エルサレムで銃撃戦があり、パレスチナの若者たちと、占領者イスラエルの警察官が命を落とした。
このような類いの出来事は、パレスチナでは比較的頻繁に起きているのだが、
今回もそれらの延長線上の出来事として報じるメディアが多い。
それどころか、日本メディアはほとんど報じることもない。
この出来事の背景はまだはっきりしない面もあるが、起きるべくして起きた出来事だといえる。
イスラエルメディアの論調はいつもの通りだが、
欧米メディアの多くも追随し、日本メディアでも欧米メディアの論調を踏襲しているようだが、
まずこの事件を受けて、イスラエル警官を殺害したパレスチナ人(占領地からではなく、イスラエル市民のパレスチナ人)のことをテロリストと呼び、事件をテロ攻撃と呼んでいることに対しては、明確に間違いであるので、反対しなければならない。なぜなら、パレスチナは占領地であり、占領者としてのイスラエルの行政、軍や警察の存在は違法であり、またそれらがパレスチナ人に対して日々行使しているあらゆる暴力は違法であり、被占領者はそれに抗する権利があるということを認識しなければならない。また今回の例では、パレスチナ人の青年たちは、明確に武装した警察をターゲットにしており、これは国際法的にも正当な抵抗活動の一環だといえる。よって、客観的な報道の立場からいっても、これはテロ攻撃ではなく、正当な占領者に対する軍事攻撃であり、当然認められるべきものだ。
イスラエル警察は、青年たちの町で行われていた弔問の場でも、弔問客を受け入れるテントを暴力的に破壊するなどしており、その傲慢さたるや決して容認されるべきではないし、21世紀の今にいたるまで前近代的な占領という状態を維持し、500万人以上の人々のあらゆる権利を奪い、非人道的な行いを日々繰り返しているイスラエル政府に対しては、国際司法がより力を行使すべきであろう。イスラエル政府の抗弁などに耳を貸す必要はないのだ。イスラエル政府とそのバックにいる米国政府らに対して何も効果的な行動を打てない現在の国際司法制度は、その存在意義さえ聞きに貧していると言わざるを得ない。
 私たちの国では、武力に訴えて何かを変えようという事に対して、過剰なほどの拒否反応があるようだが、それは時と場合によるということを理解しなければならない。話し会いで、民主的に解決されることが、どのような問題に対しても推奨されるのは当然だが、現在のパレスチナ問題の状況を見る限り、それは不可能とだろう。結果として、力で対抗していくことが唯一の手段となっており、実際にそれは効果を上げていると私は思う。
 パレスチナのイスラーム抵抗組織ハマースについても、日本の多くのメディアは、安易に過激派だとか、テロ組織だとかいうが、歴史的経緯も踏まえ、またせめて直近の50年くらいの歴史くらいは勉強して、また意識と意欲のある人間を特派員として派遣し、せめて報道の基準に達するものを書いて欲しい、伝えて欲しいと願う。
 多くのフリーランスも含めて、たとえば最近のイラクやシリアの報道でも、まったく何も伝えていない。つまり、戦闘を報じたり、難民を報じたりしているだけであり、これは誰にでも出来ることだ。そして、そこからは、人間の怒りや哀しみを煽るだけであり、より伝えなければならないことが何も伝わってこない。つまり、大手メディアや多くのフリーランスの報道は、無意味なのだ。

パレスチナのガザ市郊外には、広大な敷地に殉教者墓地がある。90年代初めには、まだ小さな共同墓地だったが、現地を訪れるたびに大きくなり、墓標が目に見えて増え、それはいまでは無数の墓標群がたつ、まさに殉教者たちの大地と化している。政治家や国連関係者も含め、ガザに行く人たちにはぜひここを訪れて貰いたいし、パレスチナの為に、家族の為に、人間の尊厳の為に命を投げ打った人たちに、1分でもいいから、心からの哀悼を捧げて欲しいと願う。
そこに数時間でもいると、愛する人たちを訪れる残された家族たちの姿が途絶えることはない。その哀しみは永遠に癒えることはない。そして、彼らの死に対して責任ある組織や人物たちの責任が問われることも、永遠にないのだろう。ただ、あまりの哀しみの深さと不条理の数々に、心が打ち震える。そんな場所である。ただ殉教者たちの平穏と残された家族たちの苦しみが和らぐことを、アッラーに祈るしかない。そんな場所でもある。

私たちは、起きていることのほんとうの意味での理解など出来ないし、ましてやそれを高慢にも伝えたり、解説したりもできない。実際、そんなことの出来るのは、ただ神だけなのだ。メディアに登場してしたり顔で話したり、取り繕った悲哀に満ちた表情で話しているジャーナリストや専門家を称する人間たちを目にすると、私のなかには哀しみが溢れ、憐れみの情さえも沸き上がってくる。
 彼らにも、いつか自分のやっていることの愚かさに気がつくときがくるのだろうか。

今日も、パレスチナは暑いことだろう。イラクやシリアの暑さは、いつものことだが、耐えがたいほどだろう。そこでも、人々は生き抜くために懸命だし、またそれぞれの暮らしがあり、あらゆることに人々は感謝して生きている。
ただそれだけだ。そして、ただそれだけが、尊いのだ。

その真摯な空間に紛れ込む、ジャーナリストという違和感、美しい純水に紛れ込んだゴミ。それらは、本来即座に除去されるべきものだが、心優しい人々は、そんなものさえも受け入れてしまう。

占領者たちに抗して、アルアクサの地で殉教した若者たち。かつて預言者ムハンマド(S.A.S)がそこから昇天していったように、彼らの命も上昇していきジャンナで安息を見いだしたのだろうか。そうであろうことを、私は信じている。

日々起きているこれらの出来事から、当事者たちはもちろん、私たちのように遠く隔たった地にいる者たちも、多くを学びそして教訓を得て行かねばならないと思う。

起きていることから学び、過去から学び、未来へと思いを馳せる。
誰もが真摯に生きていくことを願い、それぞれが行動していくことで、未来は確実に私たちを包み込んでくれるだろう。
そう信じ、またそう願っている。


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by shmurat | 2017-07-16 16:19 | エッセイ 記憶を巡る旅 | Comments(0)