死海のほとり 読後感想

 遠藤周作の「沈黙」を読んでから、信仰や神とは云々だけではなく、私たちが生きているのは何故なのかとか、神がもし存在するとして、私たち人間は、いかに対応していけばいいのかとか、さまざまな事を考えている。これは、この世界の存在は何故か、またそうだとしたら私たちはいかに生きるべきか等々、宗教とは関係なく、何か本質敵なものに触れたい、理解したいという思いで、こういう考えを抱いている人は、あながち少なくないだろうと私は思っている。

 本日、やはり遠藤周作の「死海のほとり」を読了した。
沈黙の後で書かれた小説だということだが、より信仰を、いやイエスその人の真実やイエスがいったい何をして、何をしなかったのか。あるいは彼は何者だったのか。その本質に迫る旅をした男(著者の分身)の物語。
 「私」は、クリスチャンの家に生まれ、戦時中もキリスト教の学校に過ごし、そのときの記憶をたぐりながら、現在中年となり、イエスを巡る旅に出る。イスラエルでは、かつての学友「戸田」が暮らしていて、彼に旅の案内を頼む。彼は、聖書学者としてイスラエルで暮らし続け、現在は国連の仕事をしながら、細々と食いつないでる。
 物語は、イエスの足跡をたどる「私」たちの現代の物語と、2000年前に各地を歩きながら、ただひたすら「愛」を説いていたイエスの物語の二つの話が、時空を超えて相前後しながら進んでいく。2000年を隔てた物語だが、どちらも重い空気に包まれて、ひたすら悲惨であり、辛く哀しい、そして悔恨と人間の愚かさとに覆われた話ばかりだ。しかし、いっけん悲惨で弱く、愚かにみえるイエスが、実はまさに神のオーダーを体現していたのではないか。そう思える、というか改めてそれを納得できるような気がしてくるのだから不思議だ。
 イスラエル、パレスチナの地は、多くの日本人にとっては未知の場所かもしれないが、私にとっては非常に近い存在だ。この30年近くの間に、どれだけ彼の地を訪れたことだろう。そして、単に紛争の取材ということを超えて、いやそれよりも聖地を巡りイエスに限らず、預言者たちの足跡をたどり、またそこから神の余韻を感じて、神のメッセージの片鱗でも見いだせないかと考え続けてきた。なにか余韻でもいい、光画に焼き付けることができないかと、そう思いシャッターを押し続けていたのだ。
 そんな自分の半生とも重なり、この重苦しい小説を、私は一気に読み進んでしまった。疲労困憊し、行く先々で罵倒され、追い出され、いつも空腹で乾き、悲しみに満ちていたイエス。そんなイエスの道中に、まるで自分が同行しているかのごとく錯覚し、そしてそこから現在の彼の地に残り香を求め続けるような、そんな旅(読みながら、意識だけの旅)をさせて貰った。
形としては、イエスの痕跡などほぼ残っていないのだ、そんなことはわかっている。ましてや、神の気配に触れるなど、狂気の沙汰であろう。しかし、私はそれを常に意識してきたし、また小説を読んでいても、やはりそれを求め、あるいは次に自分が行ったときに、それに接するヒントとも言えるものがないか、それを探し続けながら読んでいた。
 そして、漠然としているが、私はそれを見つけたような気がする。それは、実体のあるモノではないし、名称もないし、言葉で表現出来ることではない気がするが、それはただ身を晒し、思索を続けることでしか得られない感覚とでもいうのか。あの圧倒的な自然があるからこそ、そこから多くの預言者たちが生まれたし、また世界的な信仰も芽生えてきたのだろう。
 しかし、その地の持つ力に飲まれてしまってはいけない。これが私が小説を読んでいて、改めて意識した大事なことだ。二元論がまかり通る社会で、自然も曖昧さを許さないかのごとく厳しい部分もある。しかし、だからこそ、寛容さや、曖昧な心持ちが必要とされるのだと思うし、それがまさにイエスが伝えようとしたこと、実践し続けたことなのではないか。それは本質を突いていることであり、だからこそイエスは殺されねばならなかったのだ。まやかしで権力を持ち、人々を欺いている連中にとって、どれほど無力にみえても真実を説き続けたイエスは、当時のエルサレムのラビ(ユダヤ教導師)たちにとっては、巨大な軍隊よりも恐ろしい存在だったのかもしれない。
 これはまた、現実の今の世界にも通じる話だと思う。これも大事なポイントで、そこに意識が行く人がどれだけいるだろうか。
 そのことに気がつくだけで、読む価値があり、読んで良かったと思える書だ。そして、声高に権力に異を唱える必要はない。ただ静かに、本質をついた真実を話し続けるだけでよい。
 
 弱くて、卑怯で、姑息なのが人間だ。どれだけ相手が大きく、力があり、強く見えても、所詮は人間。
 世界の本質を説き、愛を説き、弱い者の味方となり、権力に媚びない、巻かれない、それが肝要。結局イエスがこれほどまで、現代世界で名を知られ、その教えが発端となった信仰が拡がっているのも、彼が普通の人だったから、弱かったからだと思う。
 強い者、金持ち、地位や名声ばかりが持て囃される今こそ、改めて愛を説き、虐げられし者たちに寄り添い続けたイエスのことに思いを馳せることが求められているのかもしれない。求められているという表現は、誤解を招くかもしれない。しかし、そうすることは決して無駄ではないし、誰にとっても新しい発見があると思う。そして、今の世界、自分の人生、これからの生き方を改めて見直すきっかけになるのではないか。
 

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by shmurat | 2017-01-31 22:50 | 今の世界を考える | Comments(0)